思うこと②

自分について

最近一冊の本に出会った。『じぶん・・・この不思議な存在』(鷲田清一 講談社現代新書)という本だ。古本屋で200円で売っていたのだが思わぬ掘り出し物であった。〈わたしはだれ?〉という問いについて考えた本であり、晦渋なため何を言っているのかわからない部分もあったが、そのことを差し引いても出会って良かったと思える本だった。



突然だけど、ボクはそっけない人間だ。
去年飲み会で女マネからそんなようなことを言われ、冬には友達からも指摘された。そっけないのは態度のことだ。友達が何かを言うとボクは(笑顔で、というか笑顔のつもりで)「ハイハイ」と言ってはすぐに相手を言い包める癖がある。個人的には「あなたの言いたいことはわかってるよ」と言う以心伝心的な、好意的なつもりで使っていたのだがどうもそう受け取られていないらしい。だから本心ではもちろんそっけないつもりはないんだけど(心から冷たい人などこの世にいるまい)基本的には自分の世界でしか物事を考えていないらしく、それが相手に「どこかそっけない、冷たい」印象を与えてきたらしい。



自分の世界でしか物事を考えていないというのは、何度も述べてきたように、このブログが良い例だ。鷲田清一は上述の本において「(アイデンティティの問題として)〈他者の他者〉である〈わたし〉は他者の存在なしには存在しえない」ということを(もっとわかりやすく豊富な例で具体的に)説明していたが、それから考えるとこのブログはかなり異常な状態にある。コメントがかえるくん以外にほとんどなく、言ってみれば他者なるものがほとんど存在しない。もしネット社会そのものを架空的なものとしてとらえるならば、ボクの中に存在したのは架空の、さらにそのまた架空の他者だけであった。コメントのないブログなんて星の数ほどあるし特に異常ではない、と仮にも譲ったとしても、ではこのおそろしいまでの更新意欲はいったいどこからわいてくるのか。もしかして空虚な自分の中?



ブログの例に限らず、過去のありとあらゆる、〈わたしはだれ?〉を考える上で無視し得ない他者の存在を無視した空虚な自問自答が視線を暗闇の内内へと向かわせた。それでも思いやりとかそういったものを理屈ではわかっているから、わかっているつもりだからそれらしいことを実行するのだが(この表現自体おかしいが他に適当な言葉が見あたらない)どことなくぎこちない。人によっては積極的なんだか、内向的なんだかよくわからない微妙で〈変わったやつ〉(一部の人には〈おもしろいやつ〉)という印象しか与えてこなかったように思う。高校以来(中学以来?)そういうポジションから抜け出せないのがボクとしては悔しかったりもする。



とにかく。ボクは〈他者〉という存在をもっと意識していきたいと思う。もうあまり意味のない自問自答はなるべくせずに、できることなら視線を外外に向けていけたらいいなと思う。それは必ずしも外面が良くなったり、積極的になったりすることを意味しないが今までとはまた違った〈じぶん〉という存在を見出せると思う。