自己満足(後編)


9/18の日記ではないけれど、日常において「自己満足だろ」という言葉を主に高校生以降よく耳にしました(対象はボクではない。まあ陰で言われたことがあるかどうかは知らんけど)。別に9/18の日記が「じこまんだろ」と直接言われたわけではないんだけど「これ、じこまんなんじゃないかなー」と書いた当時は心の隅で思っていました。ボクは、たまに使ってしまうこともあるけれど、この言葉があまり好きではありません



なぜなら「自己満足」という言葉は、どこから発生したのかはよく知らないけど(もとは心理学とか学術的用語だったかもしれんね)、どこかしら知性を含意した雰囲気を漂わせた言葉にも関わらずその内実はほとんど否定的な意味しか持ちえていないからです。ただの罵倒である「馬鹿」「アホ」と同列の言葉だと思うのです。いや、「自己満足」の方が知的な仮面を装っている分たちが悪いね。「おまえ馬鹿だろ」よりも「ジコマンだろ?」の方が個人的には深い傷を負う。



そもそも「自己満足」の何が悪いのだろうか。人間の(生理的な部分を除く)すべての行動は自己満足の上に成り立っていると思うのだけれど。自分は自己満足(=納得)しない行動は取っていないと思う。確かにやりたくもないことを、付き合いを理由に仕方なくしていることもあるが、「付き合いを壊したくない」という思いが優先された結果なのだからある意味納得したうえでの行動と言えるだろう。強引な展開でしょう。そもそも自己満足と納得することは同じ意味じゃないだろう、と言われそうだけどこれは一種の言葉遊び、と言うか詭弁みたいなものだから大目に見てやってください。逆にこの詭弁が皮肉にも「自己満足」がいかに空疎なものであるかを物語っているとも言える。



「自己満足」から知的なイメージを受けない方もいるかもしれない。ボクは現代社会で必ず触れるマズロー(米・心理学者)の欲求段階説を念頭において話を進めた。簡単に言ってしまえば人間の欲求にも5段階あって、最終的に求める欲を「自己実現」と定義づけた説だ。この言葉と対比してみると「自己満足」がやたら偉そうな学術的な言葉に見えてくるでしょう(笑。



いっそのこと「自己満足」を「自己実現」に言い換えてしまえばいい。そうすればあの特有の嫌味さがなくなって実にすがすがしい生活を送れるようになる。



ボクは「自己実現だろ?」と言われれば、迷わず「そらそうよ」と答えるだろう。
逆に「自己実現だろ?」と言ってやれば日本中の些末な口げんかが減って、少しは平和に貢献できるかもしれない。