最後に


半年以上ブログなるものをやってきて、悩んだりいろいろありましたがなんだかんだとても楽しかったように思います。その反面、カウンターのわりに数人しかこのブログを見てくれていることを教えてくれず、少なからぬ寂しい思いもしました。もしまたブログをやるならば、その時は友達にその存在を積極的に伝えていくか、逆に全くその存在を伝えずにやろうかな。



ネット社会の未だ黎明期とも言える現代において、さも毎日毎日一年中人と繋がっているかのような錯覚?を与えてきたブログ、gree等の存在は人との付き合い方というものを今まで以上に複雑化させてきている。つまり、それらは自分というものをアピールする恰好の場となっているから、今はまだ何とも言えないかもしれないが、将来的にはネットは”リアル”の世界に次ぐ第二の社交界となっていくのだろう。そこでは”リアル”に倣って(今でも”ネチケット”なるものはあるが)形骸的なマナーなんかも確立されていくのだろうか。(黎明期には黎明期なりのやりにくさもある。人によってネットへの比重があまりにも違うため、ネットに対する位置づけが非常に難しく、それがまた友達との付き合いを多面的なものにしている)



このブログは、結果的にはそうした「自己アピール」としてのブログに対するアンチテーゼとして続けてきたことになる。何を格好良いことを、と言われるかもしれないがそこだけは譲れない。なぜなら、このブログを続けてきたことでボクは何の得もしていないのはおろか、”リアル”な世界においてますますボクに近づき難い印象を与えてしまっただけなのだから。



2月くらいまでは、更新はしないけど一応このままにしておこうかなと思います。今日ある友達に「もっと続けてよ〜」と言われたのが救いになりました。かえるくんのコメントも励みになりました。今まで見てくれてありがとう。どうせまたいつかここではないどこか?で始めるんだと思います。人間そうは簡単に変わりません。

思うこと②

自分について

最近一冊の本に出会った。『じぶん・・・この不思議な存在』(鷲田清一 講談社現代新書)という本だ。古本屋で200円で売っていたのだが思わぬ掘り出し物であった。〈わたしはだれ?〉という問いについて考えた本であり、晦渋なため何を言っているのかわからない部分もあったが、そのことを差し引いても出会って良かったと思える本だった。



突然だけど、ボクはそっけない人間だ。
去年飲み会で女マネからそんなようなことを言われ、冬には友達からも指摘された。そっけないのは態度のことだ。友達が何かを言うとボクは(笑顔で、というか笑顔のつもりで)「ハイハイ」と言ってはすぐに相手を言い包める癖がある。個人的には「あなたの言いたいことはわかってるよ」と言う以心伝心的な、好意的なつもりで使っていたのだがどうもそう受け取られていないらしい。だから本心ではもちろんそっけないつもりはないんだけど(心から冷たい人などこの世にいるまい)基本的には自分の世界でしか物事を考えていないらしく、それが相手に「どこかそっけない、冷たい」印象を与えてきたらしい。



自分の世界でしか物事を考えていないというのは、何度も述べてきたように、このブログが良い例だ。鷲田清一は上述の本において「(アイデンティティの問題として)〈他者の他者〉である〈わたし〉は他者の存在なしには存在しえない」ということを(もっとわかりやすく豊富な例で具体的に)説明していたが、それから考えるとこのブログはかなり異常な状態にある。コメントがかえるくん以外にほとんどなく、言ってみれば他者なるものがほとんど存在しない。もしネット社会そのものを架空的なものとしてとらえるならば、ボクの中に存在したのは架空の、さらにそのまた架空の他者だけであった。コメントのないブログなんて星の数ほどあるし特に異常ではない、と仮にも譲ったとしても、ではこのおそろしいまでの更新意欲はいったいどこからわいてくるのか。もしかして空虚な自分の中?



ブログの例に限らず、過去のありとあらゆる、〈わたしはだれ?〉を考える上で無視し得ない他者の存在を無視した空虚な自問自答が視線を暗闇の内内へと向かわせた。それでも思いやりとかそういったものを理屈ではわかっているから、わかっているつもりだからそれらしいことを実行するのだが(この表現自体おかしいが他に適当な言葉が見あたらない)どことなくぎこちない。人によっては積極的なんだか、内向的なんだかよくわからない微妙で〈変わったやつ〉(一部の人には〈おもしろいやつ〉)という印象しか与えてこなかったように思う。高校以来(中学以来?)そういうポジションから抜け出せないのがボクとしては悔しかったりもする。



とにかく。ボクは〈他者〉という存在をもっと意識していきたいと思う。もうあまり意味のない自問自答はなるべくせずに、できることなら視線を外外に向けていけたらいいなと思う。それは必ずしも外面が良くなったり、積極的になったりすることを意味しないが今までとはまた違った〈じぶん〉という存在を見出せると思う。

思うこと①

”ダメ人間”


”ダメ人間”…いつからだろうか、ボクの周りでも頻繁に用いられるようになったのは。



女性がそれを口にするのは聴いたことがないが男は、少なくとも一部の人たちは、よく口にする。ボクが初めて耳にしたのはおそらく高校の部活の先輩が初めてだったと思うが、そもそも”ダメ人間”とはどういう意味で、またどうして用いられるのだろうか。ここで注意したいのはこの言葉は意味よりも用いられる理由の方が重要であるということだ。つまり意味はその用いられ方によって規定されるのであり、まず意味ありきではない。これは多くの言葉に当てはまることだが、特に”ダメ”とは話者によってその程度が全く異なるからである。



ではいったいどうして用いられるのであろうか、その背景について考えてみたい。私はそれは二重の理由(効果)を含むと考える。一つには、文字どおり自らを”ダメ人間”呼ばわりすることで内に抱えていた負い目、後ろめたさといったものを軽減する効果。もう一つにはそれを相手に発することで、一時的にせよ、自分の位置を相対的に低くし、他者との円滑なコミュニケーションをとりやすくする効果。



特に後者についてはまだ考察の余地がある。それは仮にも自分の位置を低くすることで相手の出方を伺うことができるからだ。相手はその位置を変えることなく、愛を持って「お前ダメだなー」と返してくれるかもしれないし、位置を自分も、その実際上の位置はともかく、低く合わせることで共感をもたらすこともあるかもしれない。もちろんある出方が最も優れているなんていうことはなく、出方に対する感じ方は人それぞれだが、何はともあれそれはお互いの人間性、というか相性のようなものを探る一つの手がかりとなっているのではないだろうか。



例えばあなたが学校の課題をやってこなくて自分のことを”ダメ人間”だとあえて相手に伝える時、それはすなわち「自分はろくすっぽ課題もやってこない人間ですが、あなたはそういうことに対してはどういう人間ですか」と問い掛けているようなものである。個人的な経験では人間性を確かめ合う上で様々な指標(真面目さ、積極さ、明るさ・・)があるが、自分と多くの指標において近しい人間ほど仲が深くなる傾向にある気がする。「類は友を呼ぶ」所以である。これは考えてみれば当たり前のことで、自分と似たような人間と付き合うときが最も素の自分でいられるから自然と似たような人間が集まってくるのである。


今日は成人式でした。小中の懐かしい友達に会えて本当に嬉しかったんですが、成人式そのものはひどかった気がします。何を隠そう、ボクは式場には行ったけどほとんどその中までは入らず外でひたすら友達と話していました。というか、中に入って椅子に座る人なんてほとんどいませんでした。全体の流れがそんな感じだったんで自分もそうしたんですが、あれじゃあ主催している側があまりにも惨めだと思います。正直あんな成人式をやるくらいならやらない方がましだ、くらいの意気込みを市は見せて欲しい。案内状には「小学生が飾ったトピアリー?がお迎えします」と書いてありましたが、あれはいったい何だったんでしょうか。小学生の苦労、というか気持ちが報われません。たとえそれが作らされたものであったとしても。


それとあと何日かで更新を止めようと思います。半年以上ブログを続けてきて、最後に感じたことをまとめて終わりにしたいと思います。

うすた京介とユカイな仲間たち


ご存知の方も多いかもしれないが、うすた京介という漫画家がいる。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』で華々しくデビューを飾り*1一躍ギャグ漫画界において一定の地位を築き上げたその人である。『マサルさん』は時にシュールな作風と称されることもあるが、その真偽はさておき、基本的には一応の主人公である花中島マサルの常軌を逸した変態ぶり(本人はいたって真面目のつもり)とフーミンのツッコミによって成り立っている作品である。通常のギャグ漫画、いわゆる正統派ともいえる『稲中卓球部』などとは違い、どこか視点のズレたボケが笑いを誘う。またマサルを筆頭に、全体として登場人物がとても好意的で作品全体にアットホームな雰囲気が漂っているのも成功した要因の一つだろう。



次作の『武士沢レシーブ』も一応その路線は継承したが、割合シリアスな場面が増え、またネタも『マサルさん』の時ほど切れていなかったため、作品として中途半端なものとなってしまいあえなく打ち切りとなってしまった。



今ジャンプで連載されている『ピューと吹く!ジャガー』はどれほど人気があるのかはよくわからないが、とりあえず自信初の10巻という大台に乗せまずまず安定している。私個人的にはこの『ジャガー』でうすた京介は成熟期に入ったと見ている。従来の独特なギャグに加えて心情の機微、また微妙な間というものを今まで以上にうまく描けるようになった。そこの面白さが唯一の弱点ともいえるオチの弱さを何とかカバーしているのが現状だ。



ではなぜ今まで以上に全体としてうまく描けるようになったのか。毎話7ページというページ数の少なさによる循環の良さはもちろんのこと、まず早期にキャラクターを確立できたのが大きい。ボケとツッコミの関係であるジャガーピヨ彦は基本として、普通の紅一点ではなくややマニアックな人間である高菜がいること(もはや紅一点たりえなかったので後にサヤカが加わったが)、メソ的なポジションとしてハミーがいることなど数え上げればキリがないが、何よりハマー、ポギーといった”ダメ人間”が複数存在するのが大きい。特に「いじられ+ダメ人間」、二大特徴を兼ね備えたハマーは裏の主人公と言っても過言ではない。ハマーのダメっぷりは失笑ともおぼつかない笑いを誘う(内輪的ではあるが)。もしかしたら『ジャガー』人気の要因は、自分より”ダメ人間”がいることに読者がどこか親近感と安心感をおぼえるところにあるかもしれない。

*1:正確には違い、デビュー作であるショートギャグは『チクサクコール』に収められている

オピニオン面から


ものすっごいスピードで毎日が過ぎ去っていきます。ここんとこ漫画を見るか、本を見るかだけの生活をしているから。ボクとしては学校にも行かず毎日そうやって過ごしたいんですが、そういうわけにもいきません。


世の中それとは正反対に、ものすごいアクティブな人たちもたくさんいます。好きでそうしている人もいれば、それこそが理想の生活だからと頑張っている人もいます。


また中庸を説いて「内と外」、バランスのとれた生活を心がけている人もいます。もちろんそれが最も誰にでも当てはまる理想だと思うけど、なかなか難しいことです。


今日は朝日新聞「私の視点」(2002/4/16)に書かれた前金沢大学付属病院長、河崎一夫氏のオピニオン『医学生へ』を紹介させてください。高2の時に政経の先生が配ってくれた記事なんですが、医学生でもないボクでも心打たれるものがあります。

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