靖国問題①

靖国問題について自分なりの私見を述べようと思います。レポートの一部をそのまま載せるのでかなり長いです(今日明日含めて2000字程)。「レポートの内容をそのまま載せるのはナンセンスだ!」と叩かれそうですが身近な問題であり、また多くの人が理解できると思ったのでぜひ見て欲しいと思い載せることにしました。今日プレゼンかと思ってたら来週プレゼンだったのでまた改訂版を書くかもしれませんから今回ここに載せるのはあくまで草稿版です。
靖国問題に興味のある方はどうぞ。続きは明日。

これまでの文章から見てもわかるように靖国問題政治、宗教、文化等様々な要素が絡み合った複雑な問題であり何をもって本質とするのかは非常に難しいところである。しかし私はその様々な要素の中でも特に政治がこの問題を生み出した最も重要な要素であると思う。この問題にはこの国の伝統的な政治のあり方が深く関係しているように思われる。日本は古来の大和朝廷から始まり時には国外にさほど影響を与えない程度の小さな規模での政権交代はあったかもしれないが基本的には一民族による単一の政権単が続いてきた。明治に入るまで外国(と言うと少し語弊があるかもしれないが)との本格的な争いはせいぜい蒙古襲来の時と秀吉による朝鮮出兵の時くらいである。



その影響もあってか日本ではお上意識(政府、偉い人への依存意識)が非常に強く、西欧に見られるような本格的な革命のようなものはついに起きなかった。*1 このお上意識は政治と宗教の関係にも大きな影響を及ぼした。先述した稲垣氏の文章に叙述してあったが日本では中世における浄土真宗や近世の日蓮宗不受不施派など世俗的権力者をも超越する宗教的権威(=絶対の他)を自我の中に持った宗教団体が少なからず存在したが、江戸時代における寺請制度など鎖国を含む一連の統制政策によってこのような団体は危険視され公においては廃れていってしまった。一方イギリスではその頃名誉革命が成功し、亡命先のオランダから帰国したジョン・ロックは宗教的信仰は為政者に委ねられた権限の外にあることを論じた。この宗教的信仰に対する違いが今の日本においては靖国問題を生み出した一因となったと言えるのではないだろうか。稲垣氏曰く、「鎖国という孤立化政策が、この『信仰という私事性と公共性の絡み合った普遍的課題』を、日本人に引きつづき熟慮させ発展させることを不可能にさせてしまった」。



明治に入ってからは政府は(江戸時代の仏教に代わって)神道をもって国民を戦争へと向かわせる吸引力とした。靖国神社がその神道の象徴的な存在であったのは周知の通りである。このトップダウン型政治の体質は終戦後も大きくは変わらなかった。確かに「神道指令」など日本国憲法の規定により靖国神社は一宗教法人化し信仰の自由などは保障されるようになったが、東京裁判で裁かれた戦犯などを除けば大筋の政治指導者は変わらなかったからである。また終戦直後から始まった冷戦の影響の下アメリカの反共政策の一環としてGHQの指示によりレッドパージが遂行されるなか、1950年11月には公職追放が解除され、戦犯と言われた人々が政治的復権を果たしたことも後の政治に大きな影響を与えた。このような政治の潮流があったからこそ1960年代後半から70年代前半に渡って国会に計5回も「靖国神社国家護持法案」が提出されたのである。これは日本遺族会が要求したものを自民党が受けたものだったが、結局野党や宗教界等の強い反発があり廃案となった。

*1:明治維新が革命かについては議論の余地があるけど結局維新後政権を握ったのは上流階級であった藩士やら貴族だったので今回は革命と見なさなかった。ただもう一度言うが議論の余地はある