靖国問題②

昨日の続き。ブログ用に一部手直し。

日本の政治の体質を大雑把に、そして自分なりに取捨選択して今まで述べてきたが、こうした過去の流れの延長上として現在をとらえてみると靖国問題丸谷才一氏の言う「(左右の激しい)イデオロギーの時代であった昭和」(『思考のレッスン』文春文庫、2002年)において生まれた副次的な、しかし不可避であった問題であると言える。だから靖国問題に対して意見を述べる専門家に近い存在の人達でも、その根底には少なからず靖国神社に対する好悪の差があり、その自分の感情を肯定するべく自分にとって都合の良い情報を取捨選択して意見を述べている感が他の様々な問題よりも若干強く感じられる。そのため靖国問題に対する議論はなかなか深まらないし、数ある雑誌を見てもいたちごっこの様相を呈している感が否めない。まさにある意味でいいように「実のないイデオロギー論争」(同上書)に内包されてしまったひとつの問題と言えるのではないか、とも思えてしまうのだ。



高橋氏の靖国問題政教分離規定からとらえなおすべきだという主張はどうだろうか。『まともな人』(中公新書、2003年)の「新しい宗教施設を抱え込むなら」で養老孟司氏は自分の過去の体験で東大の解剖体慰霊祭を谷中の天王寺で行うのは違憲なのかという問題に悩み、結論として今まで通り天王寺で慰霊祭を続け、諸般の事情で問題が出たらやり方や場所を変えようと決断した、と記している。このような例からも完全な政教分離はかえって混乱を招くだけであり、またそのようなことは実質不可能なこともわかる。これは靖国問題と比較できる例かどうかはわからないが少なくとも政教分離を軸に主張するだけでは為政者の行動に影響を与えることは難しいことはわかるだろう。靖国神社側も遺族の合祀取り下げ要求に対して断固として応じないなど様々な問題点を抱えているがそれはこちらからはどうすることもできない。この問題に対する議論は非常に煮詰まった感があり、自分の知る限りでは誰も有効な解決策を見出すことができていなかった。



8月15日にNHKで行われた教科書問題についての大討論会における町村外相の一言が靖国問題についての本質も表しているように思われる。
時間が解決してくれる」。
どういう意味かは各自で考えて頂きたい。
今後この問題が靖国参拝反対派が言うような根本的解決に至るかどうかはわからないが少なくとも政府としては極力近隣諸国を刺激することなく、それでも参拝すると言う首相はひっそりと参拝を続け、時間が解決するのを待つ方針だと思われる発言であった。


なんかたいした論点もなく、靖国問題は難しいから解決しないよ、という投げ捨てのレポになってしまいました(最悪。まあボクになにがしかの主張ができる程簡単な問題ではないのは明らかだけど。あと昨日大阪高裁で首相の靖国参拝に対する違憲判断がでましたね。
これからどうなるかなあ。


それとこの問題に取り組んでいるうちに(と言うほど取り組んではいないが)ボクは国家と宗教の関係に興味が出始めました。イデオロギーやらなんやらと暗澹とした空気が漂う靖国問題はもう終わりにしてテーマ少し変えたいなあ。


余談ですがボクは感情的には首相参拝に反対です。ただもう抗しがたい時代のうねりというものがあり声高に反対してもな、と思うわけです。諦念、というか。


人間としての最低限の必要な要素は備えつつもその時代時代に合った生きかたというのがきっとあるんだろうな。