日本史を学ぶ意味について


競馬界ではディープインパクトシンボリルドルフ以来の無敗の3冠を達成をしたり、日本シリーズではロッテが阪神相手にまさかの2戦連続2桁得点勝利。菊花賞を見に京都まで旅行に行く友達もいれば、日本シリーズのチケがとれずただ淡々と日々を過ごす自分もいる。最近はめっきり寒くなりセンチな気分に浸りがちになる・・と思いきや並木通りに落ちた銀杏が強烈なにおいを放ち現実の日常に引き戻される。


去年までは漠然としたレールみたいなものに沿ってきたからあまり考えずにやってこれたけど、生まれて初めてこれだけ自由な時間が持てる生活に放り出されて正直戸惑っています。



今日経済史の授業で戦後日本復興の軌跡を辿ったNHKの特集を見ました。もう戦後日本の復興に関しては日本史でかなり学んできたし、自分なりにも考えてきたのでどうってことはなかったんですがやはり当時の人々を映像で振り返るのは非常に良かったと思います。豊かになりたい、という一念のもと復興に向かって皆が皆前を向いた時代でした。当時の労働者やサラリーマンのインタビューがあったんですがこれが今現在の何も考えてなさそうな芸能人のインタビューなんかよりも遥かに面白い。「俺たちは頑張ってきたんだ!」という雰囲気を漂わせたサラリーマンもいれば素朴な笑顔と親しみに満ち溢れた方言で話してくれる労働者もいた。



それに比べてテレビやネットなどの普及により地方と都会に住む人達が持つ情報、知識の質に差がなくなってきた今がむなしく思えてくる。今後通信システムがますます高度化されていくなか、こうした情報の共有の均質化は抗えない流れだろう。民俗学なんかはもはや過去の学問となってしまうのではないか。



少し話しは変わるけど日本史を学ぶ意味は日本という国に対して知覚を張り巡らせるようになることに集約されると確信している。つまり史眼を養うための学問であると考えている。歴史においては1930年前後に井上準之助が金輸出解禁を行ったというただその1つの事実が重要なわけではない(経済学的には重要なことかもしれないが)。金解禁は第1次世界大戦中に金本位制を離脱してその後復帰しようとしたが続けざまに起きた不況、恐慌からなかなか復帰できずにいたその延長上での出来事だったという流れが重要なのだ。



史眼を養うということは今現在日本が過去から連綿と続く歴史の流れの中でどういった立ち位置にあるのかを理解するということであると思う。そういった言わば俯瞰できるような視点に立てるようになれば昨今の中韓の日本批判に対してももう少し冷静な立場にたてるようになり(決して中韓を擁護するという意味ではない)、いちいちマスコミの流れ、もしくはそれに反発する保守論者の論調に簡単に同意するということもなくなると思う。



ただボクが中韓に対してあまり嫌悪感がないのはそうした史眼を養った(つもりになっている)からというよりも、日本史上の中で所謂戦後教育と呼ばれた教育を受けてきた者の一人であるからだと思う。特に予備校時代に日本史を教わったY先生の授業が決定的であった。人間は完全に中立的な立場に立つことはもちろんできないし、またする必要も全くない(ただそうしたスタンスを示す必要はあるかもしれない)。本を読むとき誰か軸となる作家がいることが多いように(ボクは今のところ丸谷才一とか。まあまだエッセイっぽいのしか読んでないけど)、何かを学ぶ上でも誰かを軸としたうえで学ばざるを得ないからだ。「師を仰ぐ」の意味が最近ようやくわかりつつある。



あくまで結果論だけど自分は日本史を学んできて(何より予備校時代の先生の影響が大きいが)、今やっと日本史を学ぶ意味が自分なりに考えられるようになった。



高1の時は世界史、高2の時は政治・経済倫理、高3の時は日本史地理を学んできて、確かに様々な分野を学ばせて知覚できる範囲を広げるという教育システムそのものは良かったけれども世界史と地理の先生はいやに客観的な、というか淡々とした授業をするのであまり興味がわいてこなかった。世界史を学んだ人は世界史を、地理を学んだ人は地理を学ぶ意味についてどう考えているのか今度聞いてみたいなあ。