20歳になる自分へ


どうやらこれが10代最後の文章になりそう。


このブログに限らず、最近ボクはことあるごとに人に対して英語不必要論をふっかけてきた。ボクが話題としたのは従来の読解・文法を軸とした英語ではなく、最近よく叫ばれるコミュニケーションの手段としての英語である。ボクだって頭ごなしに異を唱えているわけでもなければ、普段そのことばっかり考えているわけでもない(まあ普通の市民に意思伝達のための英語が必要だとは思わないが)。ただ他の人の意見を聞いてみたいがために、あと世の主流に反発したくなる性癖のためにあえてそのような行動をとった。中には賛同してくれる人もいたけれどやはり「(どうでも)良いんでないの?」という意見が多かった気がする。



この背景にはTOEICの存在も大きいのではないか、とボクは考えている。ビジネスシーンにおいては英語が話せる方が良い、という現場の声もあればそうした声に必要以上に便乗したTOEIC、英会話スクールの存在等等・・一筋縄で考えられるような背景ではない。まず現場の声などが徐々に増え、そこにつけこんだビジネスが間口を広げついには教育界にも飛び火する。草の根とも言える教育界の変動はやがて世論を動かし官僚を、政治を動かす。目に見えない世の大きなうねりを変えるのは政治でもないかぎりできはしないだろう。反対運動から政治を動かす手段も考え得るが、思想の問題ではないのでそこまで反対する人が多く現れるとはとうてい思えない。そもそも今は大きな反対運動が起きるような時代ではないのだ。



そうした社会全体を支配する風潮のもとボクは学部の規則で春にTOEICを受けさせられるはめになり、それに抵抗する術も知らない。まさかそれしきのことで学校を辞めるような奴はいないし、就職にも影響が出ると脅されれば受けないわけにはいかないだろう・・とボクはいつからこんなひねくれた人間になってしまったのだろうか。



今一度自分の過去を振り返ってみると根幹となる人間性は変わっていないように思える。確かに様々な体験から部分的に、また無意識のうちに考えを改めるようなことは星の数ほどあったろうけどそうした体験を受けとめ、加工するようなコアな部分はそう簡単に変わるものではないと思うのだ。そうした人間性のもとボクは育ってきた。今のボクが持つ、ある意味権威主義的な、というかハイソへの憧憬ははいったいどういった人間的な要素から育まれていったのだろうか。いわゆる世の中において一定の地位を築き上げた作家の作品ばかり読もうとする性質である。今でこそそうした性質も少しは薄れてきたとは思うけど、高校の時は国語便覧にのるような作品ばかり読もうとするなどその偏向ぶりはすごいものがあった。そうしたスタンスを保つのは容易いことではないけれど、ボクの中の何がしかの性質(当然その性質を確立させたのは友達であり、先生であり、環境である)がそうさせてきたのだからそれは仕方がないことだ。



こうしたボクではあったが大学に入って徐々に自分が変わりつつあるのもまた事実だ。先日「週刊東洋経済―特集・儲ける秘密48の事例」という週刊誌を買ってみた。きっかけはあの石橋湛山が社長をやっていた東洋経済新報社がいまだに存続していることにちょっとした驚きを感じたからだ。今までの、ややもすれば儲けることに嫌悪感を感じる自分だったらこのような雑誌は買わなかっただろう。でも実際読んでみると興味深い記事もあったのである。今までの、正直性格的には法学部・文学部向きであると思われる自分(能力的には商・経済系な気もするけど)が今後商学部でどう適応していくのだろうか。



まだまだ通過点ではあるけれど、そういう意味ではボクにとって成人になることはひとつの転換点でもあると思う。今後どんな人生が待ち構えているのかは知らないけれどどんな絶望的な状況に陥っても希望をもって生きていきたい。三木清は『人生論ノート』の「希望について」でこんなことを言っている。

希望を持つことはやがて失望することである、だから失望の苦しみを味わいたくない者は初めから希望を持たないのが宜い、といわれる。しかしながら、失われる希望というものは希望ではなく、却って期待という如きものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである


絶たれる希望なんかは、存在しない。