思うことがありすぎて題がまとまらない[中編]


何がしかを作り上げることに自分の関心の本質があるとすると、それほどやっかいなことはない。なぜなら商人(あきんど)はなかだちを基本とし、決して何かを生み出すことはないから。どちらかというと信念を持ってバネなんかの部品を丹念に作り上げる下町職人に憧れを抱くボクははたして商学部に居場所があるのだろうか。



先日、本当に偶然なんだけど、京セラを定年退職した人と2時間ばかり話しをする機会があった。その人は理系の、いわゆる技術畑を歩んできた人なんだけどボクはさっきのようなことをそのおじさんに話してみた。そしたらその翁(というほど年でもないか)は商学部の重要性について語ってくれた。製造・開発の段階において技術者はどんなものが売れるのかよくわかっていない、だからそうした製造・開発のレールを敷いてやるのが営業なんだ、何も技術者だけが何かを製造しているわけではない、営業も立派な製造者の一人じゃないか、と。



ボクの中での営業への見方が変わった瞬間だった。ボクは今まで無意識のうちに営業(および商人)をどこか小馬鹿にしている部分があった。テレビのせいでもあるんだけど営業と言えばゴマをすった、媚へつらうサラリーマンしか浮かんでこなかった。営業は、常に揶揄されるための存在であった。今でこそ商人の地位は上がっているけれどこの、生産活動に従事せず利益ばかりを追求する商人への「賎商観」は少なくとも江戸時代から存在していたと聞く。芸能人(芸者)もいつの間にやら芸能界(&メディア)という舞台の下その社会的地位が相対的にあがっていったように、人口及び人生における選択肢の増加により商人の地位も上がっていったのである。*1

*1:芸者は古来日本において差別の対象であったということを『日本の歴史をよみなおす(網野善彦筑摩書房)』を読んで知ったと記憶しているけど、そもそもそうした記述が確かに書いてあったかというと曖昧な部分があるし、ましてやそのことが今の芸能界と何らかの繋がりがあるのかというと全く自信がないのでここの部分は軽く流してください。ただ個人的には何かしら繋がりがあった方が良くも悪くも歴史の壮大さを身近に感じられるので嬉しい気もする。