映画について


解夏(日/04年)』、やっと見れました。正直心にグッとくるものはありませんでした。失明するという恐怖が見ている側に伝わらなかったわけではないんですが、なんというかストーリーに起伏がなさすぎるというか淡々としすぎていた気がします。これは僕が見てきた邦画全般に言えることなんですが、やはりあまり予算がかけられない邦画全般に言えることなんでしょうか。


あくまでエンターテイメントとしてとらえるのではなく、文学的な視点からとらえるべきだと叱られそうですが(誰に!?)、だったら本を読めばいいのではないだろうか、と言ってみたい。


学問は記述のもとに成り立っているものだと思います。数学は直線など自然界には存在しないものを主に数字を用いて展開していく。自然科学は自然界に存在する現象の断面をとらえて記述の法則を発明していく。文学も小説等に書かれた表現、描写(=記述)をもとに専門家が解釈をしていく。


その意味で特に視覚に訴えていく性質を持つ映画を文学的にとらえるのは難しいことではないだろうか。漫画もまた同じことであり今以上に社会的に認められていくことはあっても文壇と呼ばれるような地位を確立するには越えられない壁があると思う。それだけ視覚を通した全体像を記述化(=ツール化)するのは難しいことなのだと思う。記述化できてこその学問なのだ。


それでも映画界は(漫画もそうだが)映画界としてれっきとして存在する。邦画の世界では特に小津安二郎氏が有名なのだろうか。(という小津さんしか知りません、すいません)去年BSで小津監督の『早春』という作品を見た。その時僕はその感想をあるWEB日記(高校の部活仲間と今も続けてます)に残しておいたので以下に記しておきますね。

あれだけあまり映画を見ないとか言いつつ3月に小津安二郎の映画を見たことを思い出した。当時は生誕100周年とかで新聞でもシンポジウムの記事やら取り上げられていて素人でも目に付く程だった。ミーハーな私は実際の映画を見たくなりBSで特集を組んでいたためさっそく「早春」(1956)を見ることができた。ある男の浮気を軸にしたごく日常的なものだった。「早春」もかなりの名作と謳われていたが私には普通の映画に思えた。土屋賢二の言葉を借りるなら「『芸術は人間の純粋な感性に訴える』という考え方は誤解を招く」、その通りだと思う。やはりそれなりに映画を見てきた人にしかわからない凄さがあるのだろう。映画がわかっていると思わせるような嘘はつきたくないのであえて、それなりに惹かれるものはあったが、「普通」と言った。そしていつか今以上にわかる日が来れば本当に嬉しいとも思った。(2004/05/15)


やはり映画は学問というよりも芸術に近いものなんだろうか。
となると『解夏』は娯楽としては楽しめない以上芸術ってことになるのかな。
言っててなんだけど芸術ととられるのも違和感があるな。
うーん、娯楽として楽しめない映画の存在っていったいなんなんだろうか。
駄○の一言で片付けるのは簡単なんですがね・・。
一応?途中、涙腺が緩んだ作品をその一言で片付けるのはちょっとね。



僕に『解夏』を紹介してくれた友達に申し訳ない文章を書きました。ごめんなさい。